KダブシャインとSALUが語る、1997年〜これからのヒップホップって?

様々なフェスやクラブの現場で音楽シーンをサポートしてきた「ZIMA」は、日本上陸20周年となるこの2017年、「Music Fighters」をコンセプトに、シーンを築いてきた先駆者とこれからを担うアーティストによる対談企画をスタートさせます。

第一弾としてお届けするのは、ZeebraやDJ OASISを擁するキングギドラのリーダーとして日本のヒップホップ・シーンの黎明期から活動し、日本にヒップホップ・カルチャーを根付かせた立役者のひとり、Kダブシャインさんと、12年のデビュー以降、ジャンルを横断するクロスオーヴァー感覚と高いスキルで新たな日本語ヒップホップの可能性を示したSALUさんとの対談。日本のヒップホップの聖地=渋谷Harlemを舞台に行なわれた世代の異なる2人の対談を通して、日本のヒップホップの20年間と、それを支えてきた人々の思いに迫ります。

INTERVIEW:Kダブシャイン × SALU

日本のヒップホップにとって重要な年=97年の思い出。

――ZIMAブランドがはじまった1997年は渋谷Harlemが誕生し、当時名前は違いましたが<B BOY PARK>の第一回が開催されるなど、日本のヒップホップにとって重要な年だったと思います。Kダブさんは同年に『現在時刻』でソロデビューも果たしていますが、まずは当時、シーンの中心にいたKダブさんがどんなことに興奮して、どんなことを考えていたのか教えていただけますか?

Kダブシャイン:95年ぐらいが、最初に日本にヒップホップが入り込んで盛り上がりはじめた年でした。そして96年に<さんピンCAMP(※1)>があって、一歩一歩日本のヒップホップが大きくなっていく最中で、大きな起爆剤になったのが97年に渋谷Harlemが出来たことだったと思いますね。それまで小さいクラブはあったものの、ヒップホップ専門の大バコというと、Harlemが東京で初だったんじゃないかな。それだけに、「どんなものなんだろう」という興奮はあったと思いますね。

※1.さんぴんCAMP:1996年7月7日に日比谷野外音楽堂で開催された大規模なヒップホップイベント

――Kダブさん自身、キャリアの最初期は英語詞で活動していたものの、そこから日本語のヒップホップを追究しはじめて現在に至っていますよね。日本語のヒップホップを確立していく中で、色々な試行錯誤もあったのではないかと思います。

Kダブシャイン:自分がラップを始めたのは日本語のヒップホップがまだ確立されていない頃で、言葉の構造が違うから、「日本語でのラップは不可能じゃないか」と思っていたんですよ。当時海外に(留学で)行ったこともあって、自分がラップをするなら英語でやるしかないとも思っていて。でも、あるとき、日本語でもラップが出来るし、やったほうがいいと分かって日本語で書くようにシフトチェンジしました。それが時を経て広まって、大きくなっていくのを実感するのに、97年という年は大きな意味を持っていた気がします。

――97年というと、SALUさんはまだ小学生ですよね。

SALU:そうですね。まだポケモンカードを毎日集めていたと思います(笑)。

――それから中学生になって日本のヒップホップに触れていったと思います。SALUさんにとって、97年頃の音楽はどういう存在だったんですか?

SALU:やっぱり、教科書みたいな存在ですよね。僕が日本のヒップホップを聴き始めたのは01~02年ぐらいだと思うんですけど、そこからさかのぼって勉強していったんですよ。

――中でもKダブさんやキングギドラの音楽に感じた魅力はどんなものだったのでしょう。

SALU:何と言っても、歌詞と声に衝撃を受けました。僕は幼稚園のときに『ポンキッキーズ』でスチャダラパーさんがラップしているのを子供ながらに観ていたりして、そのあとKICK THE CAN CREWさんたちの音楽をラジオで知ってヒップホップを聴き始めたんで、そこからキングギドラさんの音楽に触れたんですけど、それまで僕が聴いていたラップとは全然違いました。(Kダブさんが担当した)『凶気の桜(※2)』のサウンドトラックの曲を友達とカラオケで歌ったりしていましたね。「面白いな」と思って聴き始めたラップを、「かっこいいな」と思わせてくれたのがそういう音楽だったんですよ。

※2.凶気の桜:ヒキタクニオ著作による同名作品の映画化。主演は窪塚洋介。

Kダブシャイン:SALUくんはお父さんもヒップホップを聴いていて、10歳ぐらいの頃には家でドクター・ドレーがかかっていたんだよね。そういう意味でヒップホップの英才教育が出来ていから、ハードなものも気に入ってくれたのかな、と思うよ。

SALU:小さい頃から僕の家で流れていた2パックやドクター・ドレー、アイス-Tのような人たちの音楽と同じ感じがしたというか。キングギドラさんの曲を初めて聴いたときに、あのとき家でかかっていた音楽に近いものだな、と思ったんですよ。あまり種明かしはしたくないですけど、影響はめちゃくちゃ受けてますね。

Kダブシャインが駆け抜けた日本のヒップホップの20年間

――Kダブさんはその後、色々な浮き沈みも経験したと思います。今振り返ってみると、どんな20年間だと感じていますか。

Kダブシャイン:今ここにいて、あれから20年間もHarlemが営業していることにまずは驚くし、いまだにちょっと前のことのような気しかしないんですよ。Harlemが97年にオープンした頃、金曜日にDJ KENSEIとDJ MASTERKEYの<Daddy’s House(※3)>があって、俺は毎週DJブースの横で客を煽っていたのもあって、ここは「自分のホームだ」と感じていて。あれからもう20年だと考えると、本当に感慨深いですよね。

※3.Daddy’s House:渋谷Harlemで週末に開催されていた伝説的パーティー

――その中で、特に印象に残っていることというと?

Kダブシャイン:20年前にソロでデビューしたときは、「ソロで表現したいことはここでできるぞ」と思ったし、その後、一度は活動休止になったキングギドラもトントン拍子にブレイクできたのでその時代はすごくよかったですけど、ここ10年はヒップホップのトレンドや中心となる年齢もだいぶ変わってきて、色々と試行錯誤しましたね。ロックだったら、ポール・マッカートニーやミック・ジャガーのような「上の世代」が存在するわけだけど、ヒップホップの場合はJay-Zも俺と同い年ぐらいだし、ラッパーではそういう存在がまだいない。そう考えると「俺たちが切り開かないとシーンは残っていかないんじゃないか」という気持ちもあって。パーソナルなことも、シーン全体のことも色々と考えることは多かったですよ。

――SALUさんは、Kダブさんに何か訊いてみたいことはありますか? 当時のことでも、今の自分に返ってくるような話でもいいんですが。

SALU:そうですね。やっぱり、韻は踏んだ方がいいと思いますか?

Kダブシャイン:ヒップホップはそこから発展しているアート/文化だから、欠かせないとは思うね。そこで人との差がつくし、他人と比べるいい基準になる。たとえば、アメリカのラッパーは、「ラップする」というよりも「ライムする(=韻を踏む)」と言うヤツの方が多いんだよ。「何やってんの?」って訊かれたら、「俺は韻踏んでる」と答える。そう考えると、韻を踏まないと、ラップではあるけどヒップホップではないとは思うかな。

SALU:最近、どこまで韻を踏むかを考えているんですよ。日本語だったら、母音をすべてきっちり揃えて踏むということなのか、もしくは耳障りとして踏んでいるように聞こえるものでもいいのか。海外だと、耳障りで踏んでいるように聞こえる踏み方も多いですよね。

Kダブシャイン:そうだね。俺は「母音を揃える」というのは、ちょっと誤解されていると思うんだよ。語感を確かめる上で母音が合っているものが韻を踏みやすいのは間違いないけど、語感さえ合っていれば、すべて母音が合ってなくてもいい。そもそも、「あいうえお」の「い」と、「なにぬねの」の「に」では、似ているようでちょっと違いがあるわけだしね。だから、響きを韻と考えた方がいいし、母音さえ合わせればいいという考え方はむしろ危険だと思う。俺の中では10円ライムと500円ライムと呼んでいて、簡単に踏めるものと、「これは俺にしか踏めない」というものを織り交ぜていくのが自分のスタイルかな。

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